私は夫とともに、岩手県に位置する緑風荘の敷居をやっとの思いで跨ぐことができた。信じられないことにこの旅館にたどり着くまで2年もかかってしまった。 車が壊れたのではない。旅館が余りにも有名過ぎて長期間に渡り予約待ちをしたのだ。
長年民家だった農家を改装した質素な宿が、なぜ日本で一番予約を取るのが難しい旅館になったのだろうか?それは、亀麿という名の妖怪「座敷わらし」のおかげである。
座敷わらし伝説
言い伝えによると、この地方には「座敷わらし」と呼ばれる妖怪がいる。 この妖怪は子供の姿をしており、岩手県独特の古民家、曲がり屋の奥座敷に住むという。 座敷わらしは、きっと一番出没してもらいたい妖怪であろう。というのは、座敷わらしは住みつく家に幸運と富をもらたすからだ。しかもこれは妖怪だ。必ずその姿を見れる(?)とは限らない。ようやく予約できたこの特別な奥座敷「槐の間(えんじゅのま)」で評判高い妖怪と会うために、私たちは東京からはるばるやってきたのだ。
以前はホンダ創業者の本田宗一郎や首相など限られた人のみが宿泊できた槐の間ではあったが、数年前から一般の観光客も宿泊が可能になった。とはいえ、3年ごとに前もって発表される特定の日に電話で予約しなければならない。電話受付開始直後からたった数時間で、その後3年間分の予約がぎっちりと埋まってしまう。 この可愛らしい座敷わらしを見たいと思う客は後を絶たないというわけだ。もちろん私達も同じ穴のムジナではあるが。
叩く手と幽霊のような白いオーブ
そういうわけで、私たちは緑風荘にいる。 槐の間は広い畳の部屋でいぐさの良い香りがする。 動物のぬいぐるみや日本人形など様々なおもちゃが床の間にびっしりと並べられている。宿泊客からのお供物だ。 槐の間の宿泊者のなかには、就寝中に手でお腹をぽんぽんと叩かれた者がいるという。 他にも深夜に鳥のさえずりが部屋の中で聞こえたとか、空中に白い球が浮かんでいるのが見たと言う宿泊客もいる。
今晩一緒に遊んでくださいな
裏庭には、スギの木の横に古めかしい神社と赤い鳥居がある。 私はそこで祀られる亀麿さまに「もし良かったら、今晩一緒に遊びましょう」と手を合わせながらお誘いした。
興奮していたのにもかかわらず突然酷く眠くなり、いつもよりかなり早く床についてしまった。 広間で頂いたお料理でお腹がふくれたからか? 緑風荘の伝説的な温泉につかったせいか。 それとも妖怪のいたずらか?
そして私は夢を見た。 私は神社の境内で誰かと一緒に遊んでいた。非常に幸せで楽しかったのを覚えている。小さな花を咲かせた雑草が愛らしい。不思議なことにそこで一度目が覚めたのに、再度眠りに落ちると私は又その境内に戻っていた。 だが悲しいかな、もうお別れの時間のようだった。白く淡く光る、バレーボール程の大きさの球体が二つ、私の目の前をふわふわと飛んでいる。私は導かれるように球体二つと共に鳥居をくぐり、境内の外へ出た。
そのまま目を開けると壁に掛った掛け軸が視界に飛び込んできた。朝だった。「夢」という文字が妙に印象深い。あの球体は座敷わらしか? でも、オーブの数はなぜ二つだったのだろう?
後日になってわかったことだが、言い伝えによると緑風荘の座敷わらしは亀麿と母親の2人で現れるのだそう。 この母子は、600年以上に渡って緑風荘に住み着いているらしい。「ご先祖さまなんですよ」と嬉しそうに話をする高齢の仲居さんの笑顔が忘れられない。
その日の午前中に荷物を詰め、私は掛け軸に向かってお礼を言い、また夢で会いましょうと頭を下げた。こうして私達は槐の間を後にした。
全焼
チェックアウトした3日後、10月4日午後8時20分。満月の晩に風呂場から出火。 ボイラー室から発生したその火事は、すぐ隣にある台所を襲い10本のガスボンベが大爆発。 建物の高さの三倍はある火柱が立ち、巨大な紅蓮の炎は 木造2階建て計4棟を焼き尽くした。2km離れた場所からもその炎は見えたというのだから大変な火事である。幸いなことに従業員および宿泊客全員は無事であった。
緑風荘はほとんど全焼、焼失面積は2500平方メートルという大火ではあったが、なんとも不思議なことに傷一つなく焼け残ったものが一つだけある。それはあの、座敷わらしを祀る亀麿神社だ。こんな大惨事にあのちっぽけな社が難を逃れたとは奇跡としか言いようがない。亀麿神社がある中庭は狭いだけでなく、すぐ目の前にはガスボンベ10本が爆発した台所があったのだから。
残念ながら緑風荘もあの槐の間も、もうこの世には存在しない。 帰り際「夢で又会いましょう」とお別れを言ったとおり、座敷童も槐の間も夢の中でしか訪れることはできなくなってしまったのである。
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